―AΛΩ― Well's Will'd
"Biggest Blunder"の居場所をソコに。

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特別意味はありませんが、BLOGの中身を「名前をつけて保存」して、中身を新しくして見ました。

どれもこれも深い意味はないので、あまり頭を悩ませないで下さい。

なお、リンクなどはあまり考えていません。
ご希望ならどうぞ。

Date : 2017.07.08 Sat 00:43  未分類| コメント(0)|トラックバック(0)
外部化の果てにあるものは
考えてみれば、人間の進歩とは体機能の外部化であるとも言える。

もっとも分かりやすいのは服だろう。
人間は自身の皮膚や毛髪の機能を手袋や洋服にすることで、本来は活動出来ない気温の場所でも体自体を変化させずに活動することが出来る。
例えば、白熊が白い毛を持つのは、太陽光を可能な限り地肌で吸収して体温を維持するためだが、逆を言えばその毛皮が通用するのは北極圏だけになってしまった(元々それが目的なのかもしれないが)。

爪の外部化は石や木、金属、骨であったし、足の機能を外部化したのが靴であろう。
これらは外部化の中でもかなり単純なもので、基本的には人間の体が中心だ。
だが、ある一定以上の環境の変化には衣服をはじめとする単純な外部化では対処できなくなってくる。

結果、人間は気温の変化に対応するためにエアコンや移動式の密閉空間を作り出した。同様に爪の機能を外部化した延長線上にはレーザーや高圧ジェットによる切断などを位置づけることが出来るだろう。

こうして人はその機能を外部化し続け、現在もっとも顕著なのは携帯電話やパソコンなどの機器だ。
そして、当初は特定の場所でしか使えなかったインターネットは無線LANの登場によってその可能性を広げている。



機能の外部化とは、実はノウハウやスキルの外部化でもある。
ライターやマッチで火が起こせるようになってしまうと、人は木をこすり合わせて種火を起こす方法を忘れてしまった。身近な例で言えば、固定電話しかなかったときには知り合いなどの電話番号は覚えて居たのに、携帯電話にメモリーが出来るとそれすら忘れてしまう、ということだ。

これらは必然的に発生するデメリットだが、問題はこうした外部化を続けた結果、外部化した機能にアクセスできなくなった時に起こるのではないのだろうか。

例えば無線LANが都市全体に張り巡らされ、いつでもどこでも利用できる端末を皆が持っていたとしよう。災害が起こったとき、テロが起きたとき、人々は普段外部化していた能力を使用できなくなり、しかもその時に必要とされるスキルも持っていないのでパニックに陥るに違いない。

そうした事態にそなえて、公共サービスというのは常にバックアップ(ちなみに英語では自動詞としては後ろに下がるという意味であり、いわゆるバックアップは他動詞の意味である)を考えているのだが、それはつまり究極的に「外部化したものにアクセス出来ない」という状況が発生した際のリスクを限りなく上げているように思われる。

ではどうしろというのか、といわれるととても困る。
何しろ、私自身もこうして自分の思考をネット上に「外部化」しているのだから。
記事の中で他の記事を引用する際にも、リンクだけ張るという行為はまさに外部化だし、そういう意味では「ネットワーク」の本質的な部分は、自己完結をせずに外部化の連鎖を行い続けることなのだろう。

Date : 2008.08.20 Wed 13:25  壱毎| コメント(-)|トラックバック(-)
カミュ『異邦人』を読んで
本というものは、実のところ一度読んだ限りで全てを掴める物ではないと思う。
なぜなら、そこに書かれている文章は同一であっても、それを読む側が全く違ってしまっているからだ。

だが、だからといって全ての本をもう一度読み返したい、いや、改めて「読みたい」と思うわけではない。私の場合、カミュ、ヘミングウェイなどは何度も読み返すが、それ以外のものを読み返そうとはあまり思わなかったりする(資料とかは無論別だが)。

そして、今日久しぶりに「異邦人」を読み返した。
本当に短い本で、だからこそ小学生の私にも読みやすかったのだろう。あの頃この本と出会い、「老人と海」とであった事が私に本を読む楽しさを教えてくれたと思っている。

読むたびに、私は新しい側面を発見する。
最初、私にとって主人公のムルソーはとても冷静で、イメージとしてはガンダムWに出てきたトレーズのような頭脳明晰なタイプだと思っていた。なぜそう考えたのか。おそらくはムルソーの淡々とした考え、いや、そうした文体から受けた印象だったのだろう。

一方、あるときの私はこの物語に人が人を裁くという事柄についての猜疑心を読み取った。
それはつまり、母の死に涙しない男は死刑に処するべき、というような議論が成り立つのなら、全ての人間が死刑に処せられるべきだ、というような幼稚な考えであった。

また、あるとき私はこの本の中で無感動な、無気力な若者のイメージを見て取った。それはもちろん、そのときの私だった。私は彼が、ムルソーが不条理で横暴な運命に身を委ねたのだと思った。それと同時に、彼のその決断は半ば子どもじみた苛立ちと、諦めのようなものに支えられていると考えた。

今、またこの本を読み返した私は、これまでに私が思ったことを思い出した。
そして、最後の数ページを声に出して読んでみた。
そうして私が得た答えは、今はよく分からない。

きっと、またいつかこの本を読み返したときに、今さっき私が感じていた事柄を思い出すだろう。そのときにはただ一片の思考であり、他の物と見分けがつかなかったとしても、年月がたてば私はそれを他の物と見分けて判別することが出来るようになるだろうと思う。



Date : 2008.08.13 Wed 00:58  壱毎| コメント(-)|トラックバック(-)
人は見たいものしか見ないけど
人は見たいものしか見ないけど、そのときは「見たいものしか見ていない」ことに気づいていない。

両極端な二つの情報があったとして、ひとつのほうがより「好ましい」ときにはもう片方は無視される。
だが、この「好ましい」とは、必ずしもその情報が自分に対して好意的であることを意味しないようだ。

例えば、相手の意地悪な発言だけが目に付くとか、そういうこと。
つまり、「見たいもの」とは、「こうであるはずだ」という前提に合致する情報。

"実は黒人は白人より生まれつき知能が劣るという実験の研究結果があるが、差別につながるので発表されていない"

こんな情報があったとして、これを鵜呑みにする人たちはおそらく「黒人は白人より劣っている」という点に対して「そうであるだろう」という前提を持っているに違いない。

ちょっと考えれば分かるはずだ。
・そもそも黒人と白人の定義は?
 アフリカンもアボリジニもカリビアンも黒人なのか?

・仮に研究が存在したとして、その対象者は同等の教育を同じだけの期間受けていたのか?
 仮に片方が十分な教育を受けていなかったら、正確な答えが出るか?

・仮に研究が存在したとして、実験は英語で行われたのか?

・そもそも、それはどこの誰が行った研究なのか?
 同様の研究はいくつあるのか?


私が見たい世界とは何だろうか。
私の「こうであるべき」と思っている世界はどのような世界なのだろうか。
そこを理解することが、どうやら近道らしい。

Date : 2008.05.29 Thu 03:47  壱毎| コメント(-)|トラックバック(-)
小説
やはり、小説が好きだということを確認した。

やはり、私にはこれなのだと確認した。

これから、人生の節目(らしきもの)に小説を書いてゆこうと思った。


もちろん、昔と違っていきなりそれに没頭することはない。
その点で私は少しばかり成長したのだろう。

この先に待ち構える節目に備えて、時間の調整やらタスクのマネージメントをしようとするあたり、なかなか成長したと思う。
まぁ、それがきちんとできる保障はないのだが。



私は常に、より広い世界へと挑戦し続けるべきなのか、それとも深く掘り下げていくべきなのかに迷っている。
だが、それは本質的には大差ないのだ。
だから本当の意味では、この小説を書くという行為はサイコロを振る程度の意味しかない。
コンパスではありえない。
たんなる自分に対する「理由」を作る程度の意味合いだ。


だが、まぁこうして生きていくのも悪くはないかもしれないと思っている。
ここが限界なのか、もっと遠いところに行けるのか。
それを問い続けることは無意味ではないはずだ。

たとえ、過去に自分が出した結論が覆ることになろうとも。

Date : 2007.11.30 Fri 02:25  未分類| コメント(0)|トラックバック(0)
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